ツイッターのタイムラインを眺めていたら、「屈辱に耐える力」の大切さを訴える投稿に目が止まった。
これは本当にそうだと思う。
— 岸智志@スタジオライティングハイ (@st_writinghigh) October 1, 2019
「きっとなにかを成し遂げるはず」と期待させる人がいた。
だが高すぎるプライドゆえに結局なにもできず「お山の大将」になっていった。結果30代後半から彼は急速に魅力を失い、逃げるように転職した。
たった一時の屈辱さえ受容できなかったのが彼の弱さだったと思う。 https://t.co/PnrUBJYTKR
これは身につまされる話だ。
「きっとなにかを成し遂げるはず」と思われている人には、おそらく自他共に認める才能の片鱗のようなものがあったのだろう。
しかし、それゆえにハマってしまうのだ。挑戦さえしなければ「なにかを成し遂げるはず」という可能性だけは永遠に残るという甘い誘惑に。
才能が物事の成否の決定的要因だと思っている人は、戦う前から負けている。
ぼくが上に引用した岸智志氏のツイートを読んで、真っ先に思い出したのは「習得への情熱」という本の一節だった。
実際に会ってみると、その少年のチェスは学校一の腕前で、それなりの才能も感じられた。オープニングで仕掛ける速攻型のアタックをいくつか覚えているほか、基本的なチェスの戦術も自然にこなしていた。彼はおそらく、勝てるようになり始めた頃からずっと、その才能を大げさに賞賛され続けてきたのだと思う。その結果として、彼は自分の仲間や自分よりも弱いとわかっている相手以外とは戦うことを拒むようになっていた。
「習得への情熱 —チェスから武術へ—」 ジョッシュ・ウェイツキン 吉田俊太郎訳 みすず書房 P.50より
この心理について、同書ではキャロル・ドウェック博士の「実体理論」と「増大理論」を援用して説明している。
- 「実体理論」…成功や失敗の理由を、自分の才能に求める考え方。
- 「増大理論」…成功や失敗の理由を、自分の努力に求める考え方。
前者の「実体理論」の信奉者になってしまうと、この天才少年チェスプレイヤーのように、失敗することは(固定的な)才能の不足という解釈になってしまうため、失敗の恐れがあることには挑戦できなくなってしまうのだ。
いわゆる「完璧主義」ゆえになにもできない人、というのもこの延長線上にあると考えていいだろう。
低評価を怖れるあまり身動きとれなくなくなってしまうのは、行動の動機が「それをしたい、挑戦したい」という内発的な動機ではなく、「他人に才能を高く評価されたい、才能を否定されたくない」という外発的な要因にあるからなのだ。
その感情は「実体理論」派、つまり、才能が物事の成否を決めると思っている人々にとりわけ顕著にみられる。
だから、もしあなたが才能ある人を潰したいと思うのなら、それは簡単な話だ。
その人の天賦の才をほめればいい。
やがて彼はなにもできなくなるだろう。
そして、もし自分を潰したいと思うのなら、それも簡単な話だ。
自分の才能を鼻にかけるだけでいいのだから。
https://delta5a.com/hsp/weight-training/
https://delta5a.com/hsp/run-introvert/